グローバル・コミュニケーション学部の学生はみな、外国語を本格的かつ集中的に学んでいるのですが、大学入学までにどの程度勉強しているかを見てみると、やや違いがあります。英語は少なくとも中学校と高校で勉強していますが、大学入学までに中国語を勉強している人は少数派です。では、留学生の日本語はどうなのでしょうか。
在学生はよく知っていると思いますが、日本語コースの留学生は1年生から、同志社大学の多くの学生と同じ教室で肩を並べて日本語で授業を受けています。つまり、大学入学までに、相当高いレベルの日本語を身につけて入学しているのです。すると、以下のような疑問を持つのではないでしょうか。
「日本語コースの学生はもう十分日本語を勉強しているじゃないか。これ以上、日本語の何を勉強するのだろうか」
そこで、今回は、この場でこの疑問に私なりに答えてみたいと思います。「私なりに」とありますが、私は、これまで日本語を中心に教えたり研究したりしてきているので、その立場で、ということです。
まず、日本語コースには日本語と深いかかわりのある日本の伝統文化・現代文化、日本社会についての講義・実習・演習科目があります。「日本の社会実習」など、学外の施設や企業を訪問することもあります(学部のホームページやFacebookに記事が掲載されています)。日本語コースでは、日本語だけではなく、日本の文化や社会も幅広く勉強できます。
それでは、日本語に関する科目についてはどうでしょうか。レポートを書いたり、プレゼンをしたりなど大学の授業を受けるために必要な日本語や、「ビジネス日本語」など、日本で就職したときに必要になる日本語を勉強する科目もあります。一方で、「日本語の構造」など、留学生の母語と比較しながら、日本語について深く学ぶ科目もあります。日本語コースでは、日本語を学ぶだけではなくて、日本語「について」学ぶことができると考えています。
日本語はできるんだから、経営学やマーケティングなど、日本で実際に仕事をするときに役に立つことを学んだほうがいい、と思う人もいるかもしれません。もちろんそれもいいと思います。しかし、日本語について深く学ぶことは、仕事はもちろん、日本語を使って何かしたいときに現れる日本語の「壁」を乗り越えやすくしてくれるのではないかと私は考えています。
1つ例を示しましょう。ある留学生がアルバイト先の店長に、「ここ片づけてもいいですか」と聞くと、店長は「いいよ」と答えてどこかへ行きました。それを聞き、留学生が片づけたところに店長が戻ると、店長はいきなり「どうして片づけたんだ」と留学生を叱りはじめたのだそうです。このようなミスコミュニケーションのエピソードを紹介した留学生は、これを引き合いに「日本語はあいまいだ」と主張していました。
確かに、この「いいよ」を見れば、「片づけてもいいよ」とも「片づけなくてもいいよ」とも解釈できるので、日本語が母語の人でも、この留学生の主張に納得する人は少なくないと思います。しかし、この会話の「いいよ」は完全に解釈不可能ではないと思います。実際その場にいたわけではないので、断言はできませんが、おそらく、その店長の「いいよ」を聞いたとき、日本語が母語の人であれば、ある手がかりによって「片づけなくてもいいよ」の意味ではないかと推測できたと思います(この「手がかり」が何なのかはぜひ大学で私に聞いてください)※。この「手がかり」は、日本語が母語であればだれでもすぐに的確に説明できるわけではありませんが、その「手がかり」で意味は無意識に推測できているのです。一方、日本語のレベルが高くても、母語でない人にはなかなか推測できない。こういったところに、ミスコミュニケーションにつながる日本語の「壁」があるのです。
「壁」を克服するには、このようなことを1つひとつ的確に説明できる人(先生)や教科書が必要であることは言うまでもありません。しかし、先生が授業の中で説明できることや教科書の説明には限りがあります。また、大学を卒業し、社会人となったときには先生は存在しません。その時に必要なのは、日本語について深く学ぶことによって得られる、身近な日本語に関心を持って観察したり分析したりできる力です。その力があれば、身の回りの人が話す日本語と自分の日本語の違いに気づき、自分の日本語力を仕事のレベルにまで高めていくことがきっと可能となるでしょう。
留学生のみなさんは、日本語が上手であればあるほど、日本語でコミュニケーションをとる機会も多く、それだけに「壁」で悩むことも多いのではないでしょうか。外国人を採用する日本企業の大多数は依然として日本語が公用語で、日本語を母語とする社員が大多数です。日本語コースで日本語「について」じっくり深く学びながら、一人でも多く、その「壁」を乗り越えていってほしいと日々願っています。